淳和天皇とは
淳和天皇(786~840)は葬送の簡略と散骨を遺詔し、没後はそれに従って山中に遺骨が撒かれたとの記録が残る我が国で唯一散骨された天皇です。
時代の背景
桓武天皇の第三皇子で母は藤原百川の娘旅子であり、大同5年(810)の薬子の乱後、嵯峨天皇によって皇太子となり、弘仁14年(823)に即位しました。嵯峨上皇の支えにより、平安遷都4代目の治世は安定し、穏やかな日々が続きました。
上代より行われてきた葬送の儀式は、権力者の力が大きくなればなるほど盛大に行われ、それにかかる費用と年月は、民衆の生活を圧迫し、苦しめるものになっていました。
大化2年(646)に出された大化の薄葬令は、貴族や豪族に対し、膨大な費用と労力をかけて行う葬儀を簡略化し、民衆の窮状を救うことを目的に発令されました。
持統天皇(645~702)は最初に火葬された天皇ですが、自らの葬儀に関しては「政務はいつもの通りに行い、喪葬はつとめて倹約し、簡素にすること」と遺詔しました。
民衆の窮状を救うために、自らの葬儀を簡略にすることを願ったのです。
民の窮状を思えばこそ散骨
そのような流れを受けて、淳和天皇は自らの葬儀に関し、「骨を砕き粉となし之を山中に散らせ」と遺詔し、没後は近臣によって遺言通りに火葬をし、遺骨を粉砕して西嶺上山中に散骨したのです。
天皇の遺骨を粉骨して粉にするというとても恐れ多いことが本当に行われたかどうかは分かりませんが、天皇の遺言であれば実行しないことの方が恐れ多いかもしれません。
京都市右京区の小塩山山頂(標高642m)にある「大野原西嶺上陵」は淳和天皇を祀る古墳として、宮内庁管轄となっています。
また麓には淳和天皇を火葬したと伝えられる「淳和天皇火葬塚」や、淳和天皇の柩車を納めたという伝承の残る「車塚」などの古墳が点在します。
神戸新聞でも紹介
2012年10月3日の神戸新聞夕刊より
天皇自ら散骨したという事が尊い
天皇と言う立場はこの時代、神である立場でもあり、生きている時でも崇められ、また死後においても崇められるという方であるにも関わらず、皆に礼拝される場所である墓という価値観を捨ててでも、民の幸せを思う心こそが尊いのであって、しかも前代未聞のことであるに拘わらず、散骨を実践されたということは、他を思う利他行の実践です。
利他行とは自分の事は考えずに他を利することのみを思うことです。
まだまだあります散骨に関するお役立ち情報