私達は常に誰かと係わりながら生きているという意味では社会的動物です。
身近なところでは家族であり友人、仕事の部下や上司、地域のお付き合いやコミュニケーションなど、実に多種多様の人達と係わって生きています。
そういった関係性の中で何かしらの役割があって私達は存在しているのですが、普通に生活している時には自分の役割などあまり考える事はありません。
しかし、ある日突然不治の病を宣告されたとしたら…おそらく頭の中が真っ白になって何も考えることなど出来ないでしょうが、それでも家族の中で自分がいなくなった時のことも考えなくてはいけません。
まだまだ普通の何気ない日々を過ごしていたいのに、自分がいないだけで家族が落ち込んでしまいます、自分がいないために困り果てている家族の姿があります、そして自分のことをを思ってくれる度に心が痛むはずです、例え生身の体が無くても、そこに居たいと思うはずです。でも気付いてくれない、そういう葛藤の日々を過ごすことでしょう。
家族が自分を覚えていてくれるということは、それだけ必要とされているからであり、「忘れて欲しくない、いつまでも覚えていて欲しい」という気持ちは人として当然のことであり、いつまでも固い絆で繋がっていたいのです。
そういう意味では、すっかり忘れられてしまって、自分が居る必要など全く無いと感じた時が最大の恐怖なのです。
墓じまいをしていて、お墓を片付ける仕事をしていると、いつもこういうことを感じざるを得ません。お墓はある意味、いつまでも自分の事を忘れないでいて欲しいとい願う気持ちの表れであり、必要な物なのですが、時が経てば誰でも皆忘れられる運命なのですから、綺麗に忘れて差し上げるということも必要なことなのです。