多くの人で見送る散骨とは

多くの人で見送る散骨

私達は人生の中でも様々な人達と出会いと別れを繰り返しており、出会いは嬉しいものですが、お別れは寂しいものです。

その寂しいお別れは一人で見送ったり、誰も見送る人が居ないと余計に寂しいものですが、多くの人が来てくれる葬送は人の温かさを感じます。

誰も見送る人が居ない場合

亡き人の中には誰一人お見送りしてくれる人が居ないということもあり、ご本人様も覚悟はしていたでしょうけれど、誰も看取る人が居なくて静かに去って行く様はやはり寂しいものです。

人は最後の瞬間にお世話になった人の夢枕に立ったり、礼を述べたりするものですが、そういった相手もなく、また息を引き取る瞬間には自分に語り掛けてくれる人が居ることによって死後の世界への恐怖から救われるのですが、そういった人が居ないということは本当に寂しいものです。

人は一人で生まれてきて一人で死んでいくものだと言われますが、確かにそうですが、しかし傍に必ず人が居て、声を掛けてくれたり喜んで切れたり悲しんでくれたりすることを、生まれる時も死んでいく時も魂というもので見ているそうです。

チベットでは僧侶が死者の枕元で「死者の書」という経典を唱えてくれて死後の世界を迷わぬように道案内してくれます。

死後の世界の道案内の経典が今の時代に蘇る…チベット死者の書

傍で誰か看取ってくれる人がいるかいないかは、その人の生前中の徳によるものかもしれません。

多くの人でお見送り

死というものは今生で生きている人との永遠のお別れであり、電車や船で言えば片道切符なので、もうこの世の世界に帰ってくることは決してありません。

そういう意味ではお別れと言ってもたった一回のお別れであり、二度と無いお別れなのです。

葬儀の場ではたくさんの人がお見送りする時に必ず葬儀司会の人は故人の徳によるもので、多くの人達が慕って来たという言い方をします。

お釈迦様が入滅した時も多くの弟子や関係者、更には動物までもがそのお別れを惜しんで集まったと言われます。

近年では葬儀の少人数化が進み、家族や身内の者だけで行う家族葬や密葬が主流になってきましたが、直葬と言われる病院から火葬場に向かう葬儀で、お葬式が全く無いコースが選択されるようにっなて来ているのです。

しかしながら直葬では供養と言われる部分が全くないために、後になってから、亡き人に対してもっと何かして差し上げれば良かったという後悔の念を持つことが意外と多いものです。

葬儀を家族葬にして少人数の実で執り行い、散骨供養にたくさん人を呼ぶという方法もあります。

散骨供養はお墓の場合でしたら納骨供養に該当しますので、皆が参加して亡き人の遺骨を納めるという意味では皆に参加してもらい、お墓の代わりにこのような葬送にしましたということを皆に知ってもらえば後の供養についても皆さんの理解が深まるのではないかと思います。