遺骨を食べることについて

骨を食べる

大切な愛する人を失ったという悲しみはとても大きくて、心の中にぽっかりと開いた穴は中々ふさがらなく、どうしようもない気持ちから、思わず骨壺の蓋を開けて遺骨を食べてしまう人が意外と多いですが、少量なら問題ありません。

骨まで愛して

骨まで愛してのイラスト

1966年(昭和41年)1月に城卓矢がリリースしたシングル曲の「骨まで愛して」の歌詞の3番は

「なんにもいらない 欲しくない

あなたがあれば しあわせよ

わたしの願いは ただひとつ

骨まで 骨まで

骨まで愛して ほしいのよ」

私の子供の頃でありましたが、この曲が流行ったことは覚えています。

究極の愛を表現したもので、体の中の中にある骨までの全てを愛して欲しいという願いなのです。

骨を食べる事

犬を飼っている人なら御存知でしょうが、犬は好んで他の動物の骨を食べることから、骨のおやつやガムは人気商品です。

動物の本能として他の動物の肉を食べると共に骨を食べる習慣があるのです。

動物の本能として

犬は動物の骨が大好きで、おやつとしても定番で、歯のお掃除にも良いそうで、本能的にガリガリとかじって最後には食べてしまいます。

これは動物としての本能がそうさせるのですが、大自然の中では動物の死骸は他の動物や昆虫、微生物などによって消化、分解されて最後には綺麗に無くなる運命にあるのです。

動物園の狼には牛の大腿骨を与えるそうですが、狼はその骨を夢中になって噛み砕き、骨の中の髄を食べてしまうと残った残骸には興味を失くすそうです。

骨をかみ砕くことにより、噛む力を強くすることと、歯を掃除することにつながっていますので、生きていくための智慧として骨を食べるのです。

但しこの場合の骨は火で焼いていない骨のことで、中に髄が入っているので、狼や犬などにとってはそれが美味なのかもしれません。

火葬場で骨を食べてしまう人がいる

人の焼骨の場合には火葬されて中の成分が飛んでしまっているので、焼いた骨に関してはイヌも喜ばないと思います。

骨を食べるということですが、気持ちとしては愛おしい気持ちの極致なのです、愛おしくて愛おしくて、たまらない気持ちがそうさせるのですから、悪いことではありません。食べててでも一緒になりたいという気持ちなのです。

実際、戦前の日本には『骨噛み』と呼ばれる風習があり、死者の骨を嚙んだり飲み込んだりして深い哀しみを表す意味があったといわれています。
未だに火葬場では、悲しみのあまり骨を食べてしまう人がおられるようです。

最近では特にペットの遺骨を食べてしまうと言う方が増えているそうですが、大切な家族の一員であって、或いは家族以上の存在なのかもしれません。

人の骨(焼骨)は基本的に食べても大丈夫ですが、火葬の時に金属類などを始めとしていろんな物が溶け込んでいる可能性がありますので、無害とは言えません。

厳密に言いますと、六価クロムや放射能などの有害な物が混入している可能性はありますので、食べることはおすすめしませんが、大量でなければ問題ありません。

墓じまいした時にお墓から取り出した遺骨は長期間に亘って保管されていますと湿気が多く、どのような細菌が潜んでいるか分かりませんので絶対に口にしないようにしましょう。

頭蓋骨を祀る習慣

九州のとある山の中には、イノシシやシカなどの数万の頭蓋骨を納められた自然に出来た洞窟があって社として祀られていますが、それらは猟師が奉納した頭蓋骨であって、狩猟の安全や豊猟を祈願するためのものだそうです。

私達の祖先はアニミズムと言って自然崇拝を続けてきた民であり、自然は富を授けてくれると共に時には災害ももたらすので、とても畏れられていて、食料に関しては再び再生して豊かな自然の恵みを授けて下さるようにと頭蓋骨をお祀りして祭祀を行ってきたのです。

動物の殺生には相手の苦しみが伴いますので、怒りを鎮めて悪さをすることなく、そしてまた次なる再生に向かうようにとの願いが込められているのです。

沖縄の洗骨

沖縄では戦前頃まで残っていた風習として、洞窟や墓の中で放置された遺体の風化と共に骨を集めて洗う「洗骨」と言う習慣がありました。

現代では火葬の普及と共にこの風習は無くなりましたが、骨を洗う事に関しては魂を洗い清める意味合いがあり、亡き人の魂を清めるために水を使って遺骨を素手で洗い、壷に入れて墓に戻すのですが、人が亡くなった後にも故人のために洗い清めて差し上げるという行為自体が亡き人に対する思いであって、それだけ大切にされているということの証なのです。

亡くなった後に故人の遺骨を取り出して手で洗うということが故人に対しての愛情でもあるのです。

亡き人と一緒になるには

亡き人との交流

亡き人のことを思うが故に骨壺の蓋を開けて骨を食べてしまう、亡き人と一緒になりたいから骨を食べてしまう、このようなことは地球上の生き物として、動物として自然な成り行きなのですが、本能のままの行動を続けていては人としての成長がありません。

骨を食べて亡き人と一緒になるよりは、自分の心と亡き人の魂が一緒になるような訓練をした方が良いと思います。魂の交流には遺骨は不要です。

私達はそもそも生きている者同士であっても、心と心の交流を深める必要があり、これがまさに修行であり、肉体には頼らないことが大切なことなのです。私達は誰かが亡くなってからようやく心と心の交流の大切さに気が付くのですが、気が付いた時からでも遅くはありません。

遺骨が骨壺の中に入っていることが気になって仕方なかったら、もしくは将来散骨する予定であるのなら、粉骨して小さめのかわいい容器に入れてみれば、食べてしまうという習慣が変わるかもしれません。

魂の交流

どうしても宗教の世界になってしまいますが、亡き人はもう既に体を失って魂として旅立っているのですから、亡き人を追いかけようと思ったらこちらも後を追うか、自分の魂だけを亡き人に合わせるかのどちらかです。

亡き人の後を追って自分も何かに飛び込んだとしても、必ずしも亡き人と一緒になれるとは限りません。

少なくとも自殺するようなことをすれば、誰にも迷惑を掛けていなくても仏教の世界では殺人という罪を背負うからです。

自分の魂を亡き人に合わせるためには、毎日手を合わせて亡き人を念じて、なるべく多くの声を掛けることです。

とにかく継続すること、「会いたいです」「会いたいです」と毎日唱え続ければいつかは必ず声が聞こえてきますので、信じて続けてみて下さい。

そうすればもう骨を食べる必要はなくなります。

どうしても止められない場合には

僧侶の説明のイラスト

分かってはいてもどうしても止められない方は、ある意味少しばかりの罪悪感と食べてしまうことに対する疑念の思いがあるからであって、しかし止められないという葛藤があるからで、大切な人やペットの死というものはそれほど深い悲しみを伴うものであって、おそらく誰も分かってくれないのです。

どうしても止められない場合には私がやすらか庵の僧侶をしていて、無料相談も受けていますので、どうぞお気軽にご利用下さいませ。相談専用電話043-228-1480

死というものはやがて自分にもやってくる大切な事で御座います、死とはどういうことなのか、亡くなった後の亡き人は何処に行ってしまったのか、果たして私達はどこから来たのか、そして何処に向かうのでしょうか。

こういった大きな問題があるからこそ死の闇はとても深いのです。

死は必ず来るもの、そして死は旅の途中であることが分かればきっと乗り越えることが出来るのです。


まだまだあります遺骨に関する質疑応答エンター