開眼供養とは
開眼供養とは位牌、仏像、お墓などを使い始める時に神仏や亡き人の魂を入れることです。
開眼供養は仏教ですか
我が国で文献に残っている最古の開眼供養は天平勝宝4年(752年)4月9日に聖武上皇によって開催された東大寺毘盧遮那仏の開眼供養が唐僧の菩提僊那(ぼだいせんな)を導師として行われたとの史実があります。
そもそも開眼供養は大仏に眼を入れる儀式であったので、僧侶が行うものなのです。
なぜ眼を入れるのか
釈迦が悟りを得たことで仏陀と言われますが、仏陀とは悟りの境地に達した人のことで、額の所にある第三の眼が開いたということで、心の眼が開いた人という意味もあるのです。
仏が心の眼が開いた人なのですから、新たに仏を作ったとしたら眼を入れることによって真の仏になるのです。
開眼供養が必要な事例
開眼供養は神仏や先祖の眼(魂)を入れることですから、神仏や先祖をお祀りする物を作った時に開眼供養が必要で、その事例としては
- お墓を新たに造った
- 位牌を新たに作った
- 仏壇を買った
- 掛け軸を新たに作った
- 仏像を買った、或いは新たに作った
などで、新規に購入したり作ったりした時がほとんどであり、時には仏壇や仏像を引っ越しする時に一旦は閉眼供養して梱包して運搬し、新たな場所に設置してから開眼供養するようなこともあります。
移動や運搬の際にはどうしても物として運搬されることになりますので、神仏に対して失礼の無いようにとの思いで一旦は閉眼供養してから設置後に開眼供養するのです。
山川草木悉皆成仏の信仰
私は最近墓じまいばかりやっていて、閉眼供養ばかりしていますが、そのお墓のことについての話をします。
そもそも我が国には古来より自然の中に神々が宿るという信仰があり、山川草木悉皆成仏という言葉がありますが、山にも川にも草や木にも仏の心が宿るといことで、大自然そのものの、あらゆる所に神仏が潜んでいるということです。
特に木や石は神が宿りやすく、木に宿ればご神木、石に宿れば磐座(いわくら)と言いまして、ご神体ともなるのです。
また、神仏が降りてきて取りつく場所を「依り代」と言いまして、お墓の石もしかり、神仏や先祖が降りてくる依り代になるのです。
何もしない石は依り代になりません、そこで先祖が降りて来る依り代になるよう、お墓の石を僧侶が拝んで開眼供養をするのです。
しかし、これは本来の僧侶の仕事ではありません、祭りごとを司る長老や神主の行うことなのです。
仏教では石に霊が取りつくなんていう教えはありません。
しかし仏教は土着の信仰を吸収し、融合しながら定着しましたので、我が国では今でも続いているのです。
土着の信仰を無視して、純粋な仏教の教えだけでは、滅びていたと思います。
お坊さんは、釈迦の教えを説きつつ、頼まれれば何でもする「何でも屋」かもしれません。しかし、このことを理解してやっているかどうかは、疑問です。