残すこと
人間の欲望は満たされても満たされても次々と湧いてきて終わることがなく、あらゆる物質的な要求を満たして年齢を重ねてきた人が最後に欲しがる物が自分の名前を残すためのお墓です。
名を遺すという欲望
歴史の教科書に載るような大きな業績を成し遂げた人はその名前が何時までも残り続けて多くの人の記憶に残りますが、そういった歴史上の人物のように何時までもという訳には普通の人はいきませんが、それでもこの世に生きた証として名前を残したいという欲望は意外と誰にでもあるのです。
名前を残したいというよりもむしろ、忘れて欲しくないというのが正しい感情だと思いますが、仏教的には自分がこの世から居なくなっても自分の事を供養してくれる人が居ることで安心して旅立つことが出来る訳ですから、自分を忘れないで居てくれるということ、そして自分を供養してくれる人が居るということはとても有難いことなのです。
忘れないで欲しいという欲望
私達は誰でも死んでしまったら何時かは必ず誰からも忘れ去られるという存在であり、死後の年数が経つにつれて自分の事を覚えている人がだんだん居なくなるという事の方が分かりやすいかもしれません。
人間は社会的動物ですから同じ人間社会の中でいろんな人と出会いながら関係を作り上げていきます。
私達が死ぬまでの一生の間に数多くの人と出会っては別れるを繰り返し、その中でも最も身近な出会いが夫婦、家族なのですが、如何に多くの良き人に巡り合えるかという御縁は自分が人として成長していくための財産であり、人間関係の豊かさは心の豊かさにも繋がってくるのです。
多くの人達を自分が忘れないで覚えていることと同じだけの人達が自分のことを覚えていてくれるのですから、街で偶然に出会った時でも親しく話が出来ることは人間性の豊かさの象徴なのです。
もし自分の周りに自分の事を知っている人が誰も居なかったら、寂しい思いや不安な気持ちになることでしょう。
そういう意味では自分のことを知っている人がたくさん居ることは安心なことなのです。
お墓に名前を刻むこと
お墓の素材に石を使う理由は、石が何時までも残り続けるからであり、石に刻んだ文字が後世に残り続けるからであり、名前や没年月日、享年、メッセージなどを刻むことにより、自分がこの世で生きた証を残すことが出来るからです。
自分の事を全く知らない人が見ても、こういう人が居たのだという事実を知ってもらうことが出来ます。
場合によっては誰かが供養のためにお花やお線香を上げてくれるかもしれません。
諸行無常
諸行無常とは釈迦の悟り大切な内容で「この世に永遠に続くものは何も無い」という真実の言葉です。
悟りという真実の世界から見ればこの世にある物は何もかも全てが移り変わるものであり、永遠に続くものなど何もないということですから、人間の生きていた証や名誉、地位などの飾りにしてもやがて消えて無くなってしまうものであり、そういうことに拘ってはいけないと説かれているのです。
お墓にしても然り、近年では後継者が居ないなどの理由で墓じまいをする人達が爆発的に増えてきましたが、後世にまで末代に亘って自分の生きてきた証を残そうとしても無駄なことである、ということを悟らなければいけません。
残そうとすることは醜い欲望の仕業であり、後になって多くの人に迷惑を掛けてしまうからなのです。