遺骨は霊ではない
遺骨は霊ではありませんので、物として扱っても差支えは無いのですが、故人の体の最後に残った、生きていた証の亡骸として尊厳を持って扱う必要があります。
骨壺に〇〇〇〇之霊と書いてあることがありますが、これは間違いです、遺骨に霊が憑いている訳ではではありません。
亡き人の遺骨とは
亡き人の亡骸から離れた魂は亡くなった瞬間から少しずつ離れていきますが、暫くは留まっていますので、位牌を依り代にして葬儀場、そして火葬場へと向かい、火葬が終わった時点で骨壺の中に遺骨を収集して家に帰るのですが、位牌に先導された魂も遺骨が家に帰るということを認識します。
厳密には位牌を通して故人様の魂は留まっているか、降りてくるのですが、遺骨は故人様にとっては自分の亡骸の証明であり、自分が死んであの世に行くべき存在であるということを認識するための重要な役割を果たします。
人間はほとんど誰でも生きる事への執着があり、自らが死んでからも死にたくない、まだ生きていたいという願望が強く残っていますので、自分が死んだという事を認識するためには、かなりの時間がかかるものです。
執着心を断ち切るという事
まだ死にたくない、生きていたいという欲望は、自分の体に対してもまだ生き返る、動き出すと思いますし、たとえ焼骨になった所で、まだ諦めきれないのですから、思い切って物扱いにして執着を断ち切るか、儀式を伴って分かりやすく理解してもらえるかのどちらかの方法が必要になります。
昔から葬儀の儀式の中には、亡き人をいかにあの世に導くか、そして迷わないようにするかというノウハウが詰まっているのですが、近年の葬儀は形だけの手抜きの葬儀となりつつあります。
粉骨の心得
粉骨に関しては、少なくとも儀式をするか、亡き人に説明しながら行うかの方法で行う必要があり、機械を使って一瞬にして粉にしてしまうことは良くありません、手作業で祈りながら、亡き人に語りかけながら行うのが礼儀であり、作法であります。
形があったものの形を無くすのですから、その過程は見える必要があります。過程が見えないと納得できません。これは亡き人についても私達についても同じことが言えます。
もし、亡き人の遺骨を見ることなく一瞬にして粉にして、「はい、これが出来上がった粉ですよ」と渡されても、果たしてそれが故人様のお遺骨を本当に粉にしたものなのかどうか信じられないことだと思います。
亡き人の納得は私達の納得
亡き人に納得してもらおうと思ったら、手抜きは絶対にいけません、亡き人に手抜きをしたら必ずバレます。ごまかしが効かないものでございます。
結局のところ、見えない部分まで手抜きをせずに行えば、亡き人は必ず納得して頂けますし、その納得が結局私達の納得につながるのです。