散骨に反対する人
散骨は近年になって多くの後継者の居ない方などに利用されていますが、散骨に対する価値観を認めない方もたくさん居られます。
反対する理由
散骨に反対する理由としては様々な理由がありますが、それぞれの考え方については尊重されるべきです。
お墓に入れるべき
お墓がある方にとっては亡くなった方の遺骨をお墓に入れることは当然のことだと思うわけで、お墓は死後の安住の地であり、子孫の者と対面する場所であり、やがては子孫の者もそのお墓に入って御先祖様と仲良く暮らす場所でもあるのです。
お墓に入れないと成仏出来ないと考える人も居ますし、死後の供養をするためにお墓が必要とされています。
しかしお墓というものは掃除をしたりお墓参りをする人が居なければ荒れ果ててしまいますので、お墓を管理する後継者の人が居て維持出来るのですから、後継者が居なくなった場合にはお墓の中の御先祖様は皆無縁仏になってしまいますので、遺骨をお墓に納骨しても無縁仏になって強制撤去されるようでは最も悲しい結末になってしまいます。
後継者が居ないと分かった時点で墓じまいを検討することになります。
遺骨を捨てると罰が当たる
散骨は大自然の中に粉骨した焼骨を散布するものですが、見る人によっては遺骨を捨ててくることと同じだと思う人も居る訳です。
遺骨を捨てることは亡き人を粗末にすることであり、亡き人が迷ってしまうと思われないようにするためには、散骨を葬送の儀として儀式を行えばよいのです。
散骨業者の中には儀式など全くせずに遺灰をいきなり海の中に撒いたりする業者がありますが、こういった場面に遭遇したら、遺骨を捨ててくることだと思われて当然のことです。
儀式なき散骨は遺骨を捨てることと同じです。
葬送というものは本来、亡き人が迷わぬようにするものです。
散骨も葬送の儀なのです。
後に何も残らない
後に何も残らないようにするのが散骨であり、私達の身体は大宇宙からの借り物であるが故に、死して全てをお還しするのが地球上の生き物としての務めであり、悠久の歴史の中で地球上のありとあらゆる生き物がその法則に従ってきたのですから、私達も地球上の生命の一員である以上、何も残すべきではないのです。
仏教で諸行無常(しょぎょうむじょう)とは「この世には永遠に続くものは何一つない」といういつの世も変わらず存在する法則ですが、私達の命も必ず終わりが来るのですから、その時には何か残そうとすること自体が無駄であると説くのです。
私達は死後に何かを残そうと考えてはいけません。
散骨に反対する人の説得
故人の意思で散骨をする場合には、あくまでも「故人の意思」であることを貫き通します。
生前中の故人の意思は最大限に尊重されるべきです。
散骨が故人の意思で無い場合には周りの人でよく話し合う必要があります。
古い風習にこだわる人がいる場合には反対されることがよくありますが、現実問題を見つめつつ、時間をかけて話し合えば解決することもよくあります。
また、お寺さんに相談に行って、散骨の話をしたら反対されたということもよくありますが、お寺さんを説得することは一番難しいかもしれません。
特に女性の方が一人で相談に行くと、説教されて泣く泣く帰ってくるという残念な思いをする方がたくさんおられます。
どうしても納得出来ない場合、あるいは話が出来る状況ではない、聞いてもらえない、などの場合にはご相談ください。
場合によっては私が話し合いに加わることも可能でございます。
第三者の立ち合いが必要なことも世の中にはあるものです。
私なら時にはNPO法人の理事長として、時には高野山真言宗やすらか庵の僧侶としてどこにでも行かせて頂きます。
但し、正しいことは正しいと言いますが、よくある遺産目当ての争いなら、はっきりしたことを遠慮なく言いますので、覚悟してください。
まだまだ散骨に関する質疑応答がたくさんあります