私達にはそれぞれ、一生をかけて成しとげなければならない「使命」というものがあり、生まれた時に与えられているのですが、普段通りの生活を普通にしていたら、中々そういったことには気が付きません。それは何故かというと、私達の心の中に眠っているからなのです。
自分の使命にある日突然気が付く人もいれば、死ぬ間際になって気が付く人もいますし、一生それに気が付かない人もいるのです。気が付いたにしても、死ぬ間際では遅いのです。
使命とは人によって違いますし、一生かかっても成し遂げられないような使命であったりもしますが、誰しも何となくは気が付いているのではないでしょうか。
しかしながら気が付いたにしろ、気が付かないにしろ、使命を全うできる人というのは、ほとんどいないのです。
その全うできなかった使命というものを、人間、歳を取ったら体も思うように動かない故、次の世代に成し遂げてもらいたいと願うのです。
お墓というものは、そういった使命が具現化されたものではないでしょうか。
高野山の奥の院には無縁塚という塚があります。奥の院にある何十万と言う供養塔で無縁になったものを集めたものですが、無縁になったお墓であっても、何かしら語りかけてくる、必死で生きた証を訴えかけてくるものがある、単なる無縁墓ではないのです。
祈りのこもったお墓というものは、また集まれば大きな祈りになります。墓じまいでたくさんのお墓を撤去し続けていますが、仮に処分せずに積み重ねていても不法投棄の光景にしかならず、いつまでたっても味わいのある光景にはなり得ないのです。
自分一人だけのことでは無くて、衆生の利益を願い、地球のことを思う心ともう一つ、信仰心というものが必要なのではないでしょうか。