無縁仏は善か悪か

無縁仏

無縁仏という言葉を聞くと、誰からも見捨てられて

宙にさまよっている幽霊のような響きがあり、

恨んだり祟ったりされそうです。

無縁仏に安易な気持ちで手を合わせると、憑いて来る、

このような話もよく聞きますが、

果たして無縁仏は、そのような存在なのでしょうか。

諸行無常

諸行無常

お釈迦様の悟りは、いつの時代でも変わらずに存在する法則で、

その法則を体得したことで悟ったと言われますが、

仏教的な解釈をしなくても、なるほど、と頷けるものです。

その一つに「諸行無常」がありますが、

この世に永遠に続くものは一つもない、という意味です。

誰しも永遠に続いて欲しい、と思った瞬間はあるもので、

例えば地位、名誉、お金、財産、若さ、健康、恋愛など

一度手にしたら離したくないもので、いつまでも続いて欲しい、

と思うものです。

更に人間の欲は深いもので、一度手にしたらもっと欲しい、

という欲求の深みに嵌ってしまいます。

この世に永遠に続くものは何も無い、という法則は、

○○家という家族の単位にも適用され、必ず滅びていくものなのです。

無縁仏

何百年という長きに亘って続いている旧家もありますが、

ごく限られた一部であり、しかしこのような旧家にしても、

いつかは必ず滅びてしまう運命にあるのです。

子孫繁栄の願い

家族

ご先祖様が子孫を思う気持ちは、親が子や孫を思う気持ちと同じです。

親としては、自らの残りの人生が短くなればなるほど、

次の命を担う子や孫に対して、愛おしい気持ちが強くなるものです。

幸せになって欲しい、健康でいて欲しい、と願う気持ちは

宗教などには関係なく、人として誰にでも共通していることなのです。

命のバトン

リレーのバトンに例えるなら、先祖から受け継いだバトンを次の者に渡し、

自ら走る役目を終えても、次の走者を一生懸命に応援しているのです。

最後のバトンをどうするか

ご先祖様からのバトンを受けて走り出したとしても、次の走者がいなければ、

いつまでも自分がバトンを持ったままです。バトンを持ったままでは

走り終えることは出来ませんし、応援席に着くことも出来ません。

応援席ではご先祖様が応援しているし、困ったことになりました。

ここでバトンを投げ捨ててしまうことは無責任な行為ですし、

応援席のご先祖様も嘆き悲しまれることでしょう。

バトンを投げ捨てた時点でご先祖様は無縁仏になってしまいます。

しかし、倒れるまで走るような厳しい試練を、ご先祖様は

決して望んでいないのです。

リレーマラソン

自らの走る役目を終えて、バトンを渡す相手がいなかったら、

そのバトンは、ありがとうの感謝の気持ちを込めてご先祖様に

お返しすること、それが墓じまいなのです。

ちゃんと墓じまいをすれば、無縁仏が増えるようなことはありません。

無縁仏の気持ち

戦国武将

戦国時代に無残な死を遂げて、供養もされずに無念の思いを残していった

無縁仏が、通りすがりの者に取り憑いて、悪さをしていると、

霊能者に言われた方もあるかと思います。

こういう話を聞くと、無縁仏は悪い存在のようです。

しかし、全く関係の無い方に取り憑くことはありませんので、ご安心ください。

ここで大切な事は、「無念の思い」が無縁仏を恐ろしい存在にしていることです。

仇討ちもしかり、無念の思いを晴らすために仇討ちしても、

新たな無念の思いが残るだけ、無念の思いの連鎖が止まることはありません。

生きている者であれ、亡き人であれ、「無念の思い」が残り続ける

ことが問題なのです。

ご先祖様を見捨てるようなことをすれば、「無念の思い」だけが残ります。

無念の思いが悪さをするかどうかはさておき、

これ以上「無念の思い」を増やさないようにすることは、

私達日本人が存続していくのに是非とも必要なことだと思います。

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